1996-05-07 第136回国会 参議院 内閣委員会 第6号
その際、私も質問をしたのでありますけれども、私と同郷でこの同和問題に心血を注いでおられました今は亡き八木一男さんが質問なさいまして、それを受けて当時の佐藤内閣総理大臣が「この法律ができ上がれば、ぜひりっぱな成果をあげるように、この上とも御協力のほどお願いしたい。また政府を鞭撻していただきたい」と申されて、大きな拍手を受けられたことが今もなお記憶に鮮明に残っているところなんでございます。
その際、私も質問をしたのでありますけれども、私と同郷でこの同和問題に心血を注いでおられました今は亡き八木一男さんが質問なさいまして、それを受けて当時の佐藤内閣総理大臣が「この法律ができ上がれば、ぜひりっぱな成果をあげるように、この上とも御協力のほどお願いしたい。また政府を鞭撻していただきたい」と申されて、大きな拍手を受けられたことが今もなお記憶に鮮明に残っているところなんでございます。
この問題の発端は、我が党の八木一男委員が岸内閣のときに岸総理に対しまして、安保の大騒動のときでありましたが、しかしそういう問題とは離れて、国民的な国策上の問題であるということで質問をいたしましたことに対して、当時の岸総理大臣は、山口県の出身でございますから差別の実態はよく知っておられるわけでございましたので、この差別というのは政治の責任である。士農工商、その下に部落を置く。
○竹下国務大臣 ちょうど昭和四十年の同和対策審議会の答申が出まして、私は内閣官房副長官をしておって、八木一男先生が一緒に総理のところに案内してくれと言われて、本当言いますとそのときに勉強さしていただきました。それまで深い知識を持っておったとは自分でも思っておりません。
こういうことでありまして、そのとき一番熱心に八木一男さんが提案理由の説明をされたわけでありますけれども、我々の考え方は、全国民にはこれをベースにして全部税金で賄うというべースをとったわけであります。その際に、私どもは賦課方式という方式をとりました。
その間に、とにかく時限立法でいいのだ、十年間で最大の努力をして、そしてあっさりやめようじゃないかと、八木一男さんあたりが、社会党の方でございますけれども、かなり熱心に御主張になりました。私も、最後は八木さんの味方になった入間でございました。そしてあの法律をつくったのです。しかし、おっしゃいますように、なかなか簡単になくならない。
そのときに、沖本さんその他が立法措置を求められたわけでございますけれども、亡くなりましたけれども社会党の八木一男さん、この方も大変熱心でございました。私におっしゃったことをいまだによく記憶しているのですけれども、とにかく時限立法でいいから、その間に、十年なら十年の間に思い切ってやる、そしてさっとやめてしまう、そうしてくれればいいじゃないかということを強く言い続けられました。
これは奈良から出ておられた私の先輩の八木一男先生がこの問題を指摘されて、当時の労働大臣から、次の法改正のときには多段階制で、三段階を四段階ないし五段階にしますという答弁をいただいておられたわけなんです。
○大原(亨)委員 これは安保のころ、岸さんも大変だったのですが、前、亡くなった八木一男さんなんかがいまして、一生懸命国会でも議論しまして、岸さんも一役買って、佐藤さんのときにこの問題が実ったわけですよ。ですから、いまここで問題をすりかえるようなことはいけない。一生懸命やると言われますから、総理大臣は熱意を持って、指導性を持って閣内統一について意見を調整して、期待にこたえてもらいたい。もう一回。
国民年金に障害二級を創設いたしましたのは、まさしく、この社会労働委員会における与野党の合意による議員修正という形でなされたわけでありまして、先ほど表にばらつきがあるという御指摘を受けましたけれども、当時の関係者としては、私どもは、亡くなられた八木一男さんや何か多くの方の考え方として、障害二級を創設すると同時に、厚生年金の三級の相当程度まで中に取り込もうという基本的な考え方をとって、多少ばらつきが出ることも
これについては、実は私の先輩の八木一男代議士が出ておられたころにも、労働大臣に対して何度か質問をしておる。私もたしか五十二年の四月十三日だったですか、当時の石田労働大臣にも質問申し上げておるわけですが、現在の雇用保険法の中で私は制度的に見ておかしいと思うのは、いわゆる十八条の雇用保険の基本日額の自動的変更規定と四十九条の日雇い労働者に対する失業給付金の日額の自動的変更の規定の間に大きな違いがある。
佐藤総理大臣は山口県の出身ですから、差別の事実についても非常によく認識をされておったと思いますし、いまは亡きわが党の八木一男委員も本当に献身的に努力されたことをいま想起するのであります。十年の期限を目標にいたしまして、私どもがいままでやりました努力をさらに前進さして、そしてこの国民的な課題を国会の責任において真に解決し、政府がこのことを実施することを私は心から要請いたしたいのであります。
同じくその年の三月十一日でありますけれども、これは本院の社会労働委員会で、亡くなられました先輩の八木一男先生の質問に対して岸元首相は、「かくのごとき事態が生じたということについては、部落民の責任に帰すべき事由はない、」「この問題は、こういう事態を放置しておるのは全く日本の民主政治の恥辱であり、従って民主主義の完成の上からいいますと、政党政派を超越し、内閣のいかんを問わず、われわれは力を合せてこの問題
亡くなりましたが八木一男さん、奈良の御出身でございますけれども、ずいぶん苦労されたわけでありますが、いみじくも、彼の跡をおやりになっているわが党の川本委員の質問でございまして、大騒ぎになって、いま全国から私どものところへも抗議が来たり、何とか責任をより一層追及せいとか言っておりますけれども、問題は、大所高所に立って見まして、なお大きく残されている問題あるいは強化延長という問題、特に延長するに当たって
この質問は本来ならば八木一男さんがおやりになることになるだろうと思っておりましたけれども、昨年の九月にお亡くなりになり、ここにある「怒濤 八木一男の闘いの記録」という一冊の書物に彼の闘争の記録がまとめられております。これに同和対策事業特別措置法の制定の経過をずっと述べられておるわけであります。当時大蔵大臣でありました福田総理も十分記憶のあるところであろうと思います。
この問題についてひとつ労働大臣にお答えをいただきたいと思うわけですけれども、この前、昭和四十九年四月二十三日の社労委員会におきまして、私の先輩で亡くなられました奈良県の八木一男代議士から質問をされておる、当時の長谷川国務大臣に。
といいますのは、先ほど申し上げた四十九年四月二十三日に八木一男委員が長谷川国務大臣に質問したときに、長谷川国務大臣はいまの御答弁のように、「だんだんにやりますが、一発になかなかいかぬものですから、御理解いただきます。」こういう言い方を最初しておる。これに対して八木先生は、「こんなものは何でもないのですよ。事務が何とかとおっしゃるけれども、有能な労働省の職員です、そんなもの、十分こなせます。
私は、部落解放の父、松本治一郎先輩や八木一男先輩の遺志と遺業を引き継ぎ、差別と迫害の中からやっと国会に参った者でございます。以後よろしくお見知りおき願いたいと思うわけであります。 さて、湯山先生の質問に関連いたしまして、二、三、部落問題につきまして御質問を申し上げたいと思います。
質問に当たりまして最初に一言申し上げたいことは、私がする質問は、本来ならば故人となられた八木一男氏がするはずでございます。私は、八木一男氏の意を体して質問をするという気持ちでいたしますので、御答弁もまたそのような御配慮でいただきたいと思います。 と申しますのは、同和問題を取り上げたのは昭和三十三年でございました。
塚原 俊郎君 西村 直己君 根本龍太郎君 野田 卯一君 藤井 勝志君 保利 茂君 前田 正男君 松浦周太郎君 渡辺 栄一君 安宅 常彦君 阿部 昭吾君 赤松 勇君 岡田 春夫君 多賀谷真稔君 辻原 弘市君 中澤 茂一君 楢崎弥之助君 八木 一男
同月十三日 辞任 補欠選任 倉石 忠雄君 灘尾 弘吉君 鈴木 善幸君 松野 頼三君 二階堂 進君 島村 一郎君 同月十七日 辞任 補欠選任 篠田 弘作君 鈴木 善幸君 同月二十七日 辞任 補欠選任 江田 三郎君 佐々木更三君 下平 正一君 八木 一男君 昭和五十年一月五日
佐藤敬治君紹介)(第六一四号) 二〇〇 同(佐野憲治君紹介)(第六一五号) 二〇一 同外四件(多賀谷真稔君紹介)(第六一 六号) 二〇二 同外一件(多田光雄君紹介)(第六一七 号) 二〇三 同(竹内猛君紹介)(第六一八号) 二〇四 同外二件(辻原弘市君紹介)(第六一九 号) 二〇五 同(古川喜一君紹介)(第六二〇号) 二〇六 同(美濃政市君紹介)(第六二一号) 二〇七 同外四件(八木一男君紹介
根本龍太郎君 藤井 勝志君 保利 茂君 前田 正男君 松浦周太郎君 綿貫 民輔君 渡辺 栄一君 安宅 常彦君 阿部 昭吾君 赤松 勇君 岡田 春夫君 多賀谷真稔君 楯 兼次郎君 辻原 弘市君 中澤 茂一君 楢崎弥之助君 武藤 山治君 八木 一男
八木一男君。